古くからあるそばの歴史

日本では、蕎麦(そば)はいつ頃から食べられていたのかご存知でしょうか?

日本においてそばの歴史は、とても古きに遡ります。

日本の考古学上の時代区分で、今から約1万6,500年前(紀元前145世紀) から約3,000年前(紀元前10世紀)の時代を、縄文時代と呼んでいますが、実は、そばは、この縄文時代から食べられてきたと言われています。

高知県内では9,300年前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられています。また、埼玉県さいたま市の岩槻区では、3,000年前の遺跡から、そばの種子が見つかっています。こうした縄文時代の人々は、そばを石の上で粉にして食べていたのではないかと言われています。

そこから紀元後3世紀中頃までに該たる弥生時代には、もみがらを落とす脱穀具として、朝鮮半島から唐臼(からうす)が入りました。この唐臼は、てこの原理を応用して足で杵を踏んで穀類をつく仕掛けのものでした。これにより人々は、そばを米のように粒にして蒸したり、あるいは煮たりして食べていたと言われています。

奈良時代前期の女帝、元正天皇(680~748)が出した詔の中に、「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」とありますが、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないそばは、凶作の際に、稲に代わる備蓄食品として植えられていたようでした。

鎌倉時代に入ると、中国から手碾(ひ)きの石臼(いしうす)や茶臼が伝来しました。いずれも弥生時代の唐臼とは違い、本格的な臼でした。石臼は、上臼と下臼からなり、下臼の中心の軸棒に上臼を通し、両臼が接触する磨り面に溝か歯を埋め込み、上臼を回転させ、摩擦を起こし、製粉するものでした。また茶臼は、石臼より小振りの臼の下に大きな受け皿がついていました。茶臼は多く抹茶用に用いられました。

これらにより、そば粉が大量にできるようになり、そばがき(そば練り)やそば焼餅などが食べられるようになりました。この頃のそばは、現在のように麺状のものではなく、いわゆるそばがきを、餅や団子状にしたものでした。

■「そば切り」~麺としてのそばの登場

包丁で切って麺状のそばを作る、いわゆる「そば切り」は、うどんの製造を真似たものが、  この後の室町時代(1338~1573年)には既にあったのではないかと言われています。
しかし「そば切り」が確認できる文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の記録『木曽・大桑村須原常勝寺・古文書』だとされています。1574年(天正2年)のう百六十人者の番匠(大工)が働いた同寺の仏殿修復工事の完成に際して、寄進物として「振舞ソハキリ」と、そば切りが振舞われたことが書かれています。

さらに江戸時代(1603年~)に入り、1614年(慶長19年 )の慈性という僧侶が買いた『慈性日記』には、「常明寺へ・・・・・・行候へ共、・・・ソハキリ振舞被申候也」と、常明寺でそば切りをご馳走になったことが記されています。

1643年(寛永20年)の日本初の料理専門書である「料理物語」には、そば切りの作り方が書いてあります。麺状の「そば切り」はこの頃から一般にも広がるようになったとされています。ただし「そば切り」は茹でると切れてしまうので、小麦粉がつなぎとして使われることが一般化するまでは、湯で茹でることはせず、蒸籠(せいろ)で蒸していました。いわゆるこれが
「せいろそば」の原点です。

江戸中期の元禄(1688年~)の頃になると、江戸の旦那衆はそばを肴(つまみ)に、     昼間から酒を飲んでいたと言われるくらい、この 「蒸しそば切り」は流行りました。
やがて「そば切り」のつなぎに小麦粉が普及するのに従って、そばは茹でて出されるようになり、現在のようなそばになりました。